縁側と葡萄の木 |
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縁側と葡萄の木の家 |
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1949年(昭和24年)12月、私は、北海道の函館で生まれた。 小学校入学前の1954年(昭和29年)頃まで、中島町のその 家に暮らしていた。 その家の縁側で、どてらを着た祖父が赤ん坊の私を あぐらに乗っけて日向ぼっこをしていたそうだ。 盆栽好きの祖父だったらしい。 |
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もう一つ、この家の「記憶」がある。 この「記憶」も、小学校入学前のことである。 台風が来ていたのか。 家中、雨漏りがひどかった。 寝る場所がなくて、その日は、弟と一緒に押入れで寝た。 この家の「記憶」は、この日で終わってしまう。 小学校(中島小学校)に上がる頃には、生家とそんなに 離れていないところにあるアパートに引越していた。 2年生になって、また引越しがあり、中島小学校から 松風小学校へ転校している。 この話の舞台は、現在の函館市の地図で、この辺。 ちず丸へリンク(1/5000) ちず丸へリンク(1/1000) |
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中島町のメインストリート。 時期によって、この通りの両サイドに、 「露店」がずらーっと並び、「大中島廉売」に 変身する。 |
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私が、1、2年生だったこの時代。 1956年(昭和31年)〜1957年(昭和32年)、つまり、昭和30年代初頭という、 この時期は、どういう時代だったのか。 記憶を通して、探ってみた。 |
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@「カラー写真」は、なかったと思う。 あったとしても、私のまわりにはなかった。 小学校入学前に撮った記念写真は白黒だった。 かなり美男子だった私の写真が函館の実家には残って いるはずだが、長靴下のバンドが一つ見つからなくて、 家族、親戚一同、かなり悩んでいたのを覚えている。 結局、せっかくの入学記念写真、長靴下の片方がずり 下がって写っている。 A「蒸パン」というのが、売り出された時期だった。 「蒸しパン」などというものは、それまで見たことがなかった。 「甘納豆」が入っているのもあったのかも知れない。 セイロの中で蒸しあがっていく蒸パンを、 お店(中島廉売の通りの入り口あたりにあった)の前 に行って、いつも見ていた。 買ってもらった記憶は全然無い。 「パン」といったら、給食で「コッペパン」というのがあったが、 それから見たら、すごく美味そうなものだったのだろうと思う。 |
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B「ダンゴ売り」のおじさんが来るのが楽しみだった。 1、2年生の頃の一番の楽しみは、「チリン、チリン」 という 鈴の音。 自転車に乗ったダンゴ売りのおじさんが来た合図 だった。 アンコのついたダンゴ。 ゴマ味のダンゴ。 あまいしょうゆ味のダンゴ(みたらし団子?)。 竹串にダンゴをさした串ダンゴである。 でも、いつもダンゴにありつけるわけではない。 近所のおばちゃんや、親戚のおばちゃんが、 「おいで!」 と、近隣のチビどもを呼び集めてくれなければ ダメだった。 |
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あの時期、そんなに裕福な時代ではなかったと思うのだが、 子どもたちを呼び集めてくれるおばちゃんたちが多かった。 自分の子だけのために団子を買うおばちゃんは少なかったと思う。 「チリン、チリン」という合図。 それが聞こえてくるのをどんなに楽しみにしていたことだろう。 |
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C「アイスキャンデー」が売り出された時期でもある。 おいしかった! あの形、あの味を覚えているからだろうか、 あの頃のシンプルなアイスの味を、今でも 求め続けている。 自分でも、アイス作りに挑戦したのを覚え ている。 食べることに関して、「求める」時代だった。 大学生くらいになって、一度、野球場のよ うなところで、あの頃の「アイスキャンデー」 の味にめぐりあったことがあったが、今では、 もうあの頃のようなシンプルなアイスキャン デーにお目に かかることはなくなってしまった。 |
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D「テレビ」を持っている家は少なかった。 中島町、大縄町の時代には、テレビを持っている 家は少なかった。 この時期、テレビを持っている家はたいへん だったろう。 夕方など、近隣の人たちがおおぜい押しかけて、 テレビを見せてもらっていた。 私は、外の窓から中をのぞいていた。 つてがなかったから。 |
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ディズニーのアニメだったのだろうか。 画面の中で動物のキャラクターが動いている ことに感動していた。 もちろん、白黒テレビの時代。 すぐ近くを流れる「新川」(今は、「亀田川」と 呼んでいるらしい)の土手から掘り出した 粘土で四角いテレビの形を作って、紙に 書いた絵を画面のところでスライドさせて 遊んでいた。 |
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E川は、遊び場だった。 「新川」で思い出したが、土手によくカボチャが できていたのを 覚えている。 野菜くずなどと一緒に捨てられたカボチャの種 から芽が出て自然に育っていったものらしい。 大雨の後に、この新川に落ちたら大変なことに なる(小学生が川に落ちて、ずっと下流まで流 され水死体になってあがった こともある)が、 普段は、小学1、2年生でも入って遊ぶことが できる深さだった。 よくタモを使って、ドジョウや小鮒などを取って 遊んだものだ。 タモを入れた少し先のあたりから足を使って追 い込みをかけるのだが、時としてヤツメウナギ が入っていたりもした。 ただ、水から上がると、足にヒルがくっついてい たりしてとびあがった! |
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橋の下は、えぐれて深くなっているところがあり、1、2年生には 怖くて近づけない場所だった。 ナマズの格好の棲家になっていて、大きな子たちがつかまえた ナマズがバケツの中にユラ〜と入っているのを見て、橋の下に 入っていける大きな子たちがうらやましかったものだ。 いつだったか、この川のずっと上流まで遠征して行き、 泳いで遊んだのを覚えている。 「スッポンカッポン」と呼ばれているところで、川の中に沈んだ 土管の中をくぐって通り抜けたりして遊んだ。 当時でも、泳げるくらい、水のきれいな場所だったようだ。 |
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F「貸し自転車」、というのがあった。 自転車屋さんの店先に、貸し出し用の自転車がいっぱい並べてあり、 30分、何円、といった感じで貸し出すのだ。 いくら払っていたのかは覚えていない。 今のように、簡単に自転車を買える時代ではなかった。 子ども用の小さな自転車なんていうものはなくて、大人用の自転車に 「三角乗り」をしていたのを覚えている。 *「NEW STANDARD」 というサイトに、「三角乗り」の いいイラストがある。このイラスト、欲しかった! |
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