東京(江戸)・散歩

東京散歩(お江戸散歩)

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   『東京散歩(お江戸散歩)』



  「東京散歩」にわざわざ、カッコつきで

  「お江戸散歩」とするのには、わけがある。

  



  私は、土日などを利用して、パートナー

  と温泉に出かけることが多いのだが、

  そうでない時は、東京に散歩に出かけ

  ることも多い。





  上野や浅草に出かけていったり、都電

  めぐりに出かけていったり等するのだが、

  そういった記録も残しておきたい。






  それともう一つ、小説の中に出てくる場所

  をぜひ歩いてみたいと思うのだ。



           表から見た雷門の提灯。
           「平成十五年八月吉日 風雷神門」とある。
      裏側から見た雷門と提灯。この提灯の下に、
      「松下電器」とあるのは、松下電器(現パナソニック)が
      寄贈したということかな。
《その一》  『ここのコンテンツについて』 


小説といっても、それほどたくさんのものを考えてはいない。


『鬼平犯科帳』『剣客商売』である。


本は、どちらも、全部読み終わった。



実は、CSテレビで、池波正太郎アワーとして、『鬼平犯科帳』と

『剣客商売』が放映されている。



今、私は、これを見るのが、大の楽しみになっている。

見た後は、小説を引っ張り出してきて、ドラマと比べてみたり

する。


微妙に違いがあり、ドラマもいいのだが、やはり小説の方が

なんともいわれない味わいがあり、私は、池波正太郎の文章

の方に軍配を上げてしまう。




『鬼平犯科帳』では、主役の鬼平を中村吉右衛門が演じていて、

私は、中村吉右衛門の大フアンなのだが、たまに、同じ『鬼平犯科帳』

でも、吉衛門の父親の松本幸四郎が鬼平役のものが流されたりもする。

これも面白い。




ドラマ『鬼平犯科帳』が大好きな理由の一つは、中村吉右衛門のなんとも

いわれぬあたたかさを感じる演技なのだが、もう一つは、ラストシーンに

流れるエンディングテーマ曲、ジプシーキングスの


『インスピレイション(Inspiration)』



である。


もうなんともいえない、すばらしい曲なのだ!

中村吉右衛門が演じる『鬼平犯科帳』のラストに、これほどぴったりの曲は

ない!!



しかし…。



ラストシーンのどこで、この曲が流れ出すかに関しては、わたしは、かなり

うるさく注文をつける。


でき上がっている作品に、テレビの前で注文をつけたって、土台、どうしよう

もないのは分かっているのだが、そうもいかない。



「ダメ、曲の流れ出し、遅すぎる!」

とか、

「うーん、今一。鬼平の最後のセリフが終わるか終わらないかの、ほんの

 少し前から流れ出してこそ、効果!」

等々、ぶつぶつやっている。



ドラマの製作者も頑張っているのはわかるのだが、『インスピレイション』の

流れ出すタイミングについては、私は、時々不満をいだいてしまうのだ。




で、ジプシーキングスについてなのだが、私は、このグループは、日本人の

グループだとばかり思っていた。


(時代劇のエンディングテーマで、ギターの演奏が入るなんて、製作者は、

 すごいいいセンス。なんといっても、『鬼平犯科帳』のラストにまったくぴったり

 だものなあ。殿様キングスは知っているが、このグループは、もっと若い世代

 なのかな。)

ぐらいに思っていた。



音楽に疎いもので、しょうがないといえば、しょうがないのだが。



インターネットで調べていたら、偶然、「ジプシーキングス」に関連したサイト

が出てきた。


  Bamboleo-The Unofficial Gipsy Kings Homepage in Japan


 ジプシーキングスのオフィシャルサイトも。



南フランスでうまれたジプシー(ロマ)の現役グループで、あちらでは、

すごい人気のグループなのだとのこと。

ビールのコマーシャルで流れる『ボラーレ(Volare)』は、彼らの演奏とのこと。


知らなかった!!




うれしいことに、「ジプシーキングス」で検索をしているうちに、


「インスピレイション」を聴くことができるサイトまで見つかった。


YouTubeのoniheiEDというところで、インスピレイションの曲を、

好きな時に聴くことができるのだから、こちらとしてはうれしい

のだが、ここ、著作権とかそういうのは大丈夫なのかね。



同じくYouTubeの「Jidaigeki - Onihei Hankacho : Kyozoku(brutal thief)」

「凶盗」のシーンとそのエンディングのシーンを見ることができ、

インスピレイションを聴くことができる。


*上の二つ、残念ながら、松竹株式会社から著作権侵害の申し立てがあり、

削除されてしまった。





『剣客商売』の主人公、秋山小兵衛役は、藤田まことである。

中村吉右衛門とならんで、藤田まことも大フアンである。



藤田まことは、必殺シリーズで「中村主水(なかむら もんど)」と

いう役でも出ているが、私は、必殺シリーズは、あまり好きで

はない。


池波正太郎の梅安シリーズなども、私は、敬遠してしまう。




『剣客商売』では、よほどのことがない限り、秋山小兵衛が

人を斬り殺すシーンは、出てこない。



斬り合いをしても、無外流の秋山小兵衛は、腕や足の腱を切って

戦力を失わせるだけ、というのが多い。


ちょうど今も、ホームドラマチャンネルで、『剣客商売』を

見たばかりだ。



『剣客商売(一)』(新潮社文庫)の第四話「井関道場・四天王」


をドラマ化したものだ。




ドラマでは、浅草の浅草寺付近で、秋山小兵衛の一子、大治郎が、

偶然、井関道場の四天王の一人、渋谷寅三郎と出会うことになる

シーンで始まっている。


暴れ馬の引いた荷車の下敷きになってしまった幼子を、渋谷と大治郎が

助けたことから、意気投合。


しかし、この仲良くなった渋谷寅三郎が、市ヶ谷・長延寺谷町にある井関道場

の西側の「暗闇坂」で、頭を割られ、心臓深くまでとどめを刺された姿で発見される。




やはり、どの辺りだろう、となる。





秋山小兵衛の鐘ヶ淵の家の位置や、四谷・伝馬町の御用聞き・弥七の住む武蔵屋、

神田・小川町にある田沼意次の屋敷の位置、浅草の外れの、真崎稲荷明神社近く

にある大治郎の道場の位置なども、知りたくなる。




江戸切り絵図を紹介するサイトがあり、アマゾンで、地図を

購入した。


『切り絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』(人文社)という

本だ。(私のこのコンテンツと似た題名だが、これは、まった

くの偶然)。


切り絵図と現代の地図が見開きのページで、比較できるように

なっていて、とても便利なものだ。


しかし、私など、この地図を見ても、まだどうも全体的な位置関係

などが頭に入ってこない。




この地図で目星をつけながら、あちこち出かけていって、

小説の中の場所を訪ねながら、頭の中に「地図」をたたきこんで

いきたいと思う。この「地図」が、頭の中にでき上がった時には、

小説を読む楽しみが、どれほど膨らむかわからない。





ところで、ドラマ『剣客商売』では、井関道場の紛争が解決した後の

最後のシーンで、渋谷寅三郎を暗殺した犯人、四天王のひとりである

小沢主計とその家来の三人は、渋谷寅三郎の仇討ちであるとして、

大治郎が、立ち合いを申し込み、斬り倒している。






小説「井関道場・四天王」では、次のように書かれている。

  

   さて、これは一年後の、安永八年(一七七九年)夏のことであるが…。

   そのころ、すでに、神田・昌平橋の近くへ、父・石見守の援助で道場をひらいてい

  た小沢主計が、父の家来・神谷新蔵をともない、中州の料亭〔稲屋〕へ遊びに出かけ、

  夜に入ってから帰途についた。

   そこまでは、わかっている。

   すると翌朝になって、小沢と神谷の死体が、柳原土手に面した郡代屋敷の塀の裾に

  ころがっているのを、富松町の豆腐屋の女房が発見した。

   二人とも、ただ一太刀に殪されてい、小沢主計は見事に頚動脈をはね切られ

  即死。神谷は心ノ臓を一突きにされていた。

   検視にあたった役人は、

   「これほどの手練は、見たことがない。」
  
    舌をまいたそうである。

    翌日の夕暮れに、四谷の弥七が、このことを知らせに小兵衛のところにあらわれる

  と、

   「ほう。そうかえ、そうかえ。見ろよ、弥七。去年あのとき、わしがいったとおり、

    ついに天罰が下ったではないかよ」

   「はい、はい」

    うなずいた弥七が、くびをすくめるようにして小兵衛を見あげ、

   「先生。その天罰は、どこのだれが、お下しになったのでございましょうね?」

    問いかけるや、秋山小兵衛の細い眼が、ぎらりと光って、

   「神様さ」

   「へ…?」

   「剣術の神様が、天罰を下したのさ」

    いうや、一瞬厳しく引きしまった顔へ、たちまちいつものなつかしげな笑い

   が波紋のようにひろがってきて、

   「恐ろしいのう。天罰は、よ」

   「へ、へい…まことに恐ろしゅうございます」
 
    弥七は、うつむいたまま、顔をあげられなかった。



  《  『剣客商売 一』「井関道場・四天王」P203〜204(新潮社文庫)より  》

小説では、小沢主計と家来・神谷新蔵のふたりのみが、死体となって発見された

ことが書かれており、誰がその「天罰」を下したのかについては、隠されている。



秋山大治郎ではありえない。井関道場の紛争の頃、秋山大治郎は、嶋岡礼蔵の

遺髪を届けるため、礼蔵の実家のある大和に旅立っていて、いないのである。





何やら、すごい手練の者の仕業であるということと、秋山小兵衛の言葉から、


もしかしたら…。


と思わせる手法で小説は終わっている。







右の写真は、2008年5月6日(火)、ゴールデン

ウイーク最終日に、浅草に出かけた時のもの

である。





このコンテンツで、今後、この種類の「東京散歩」

が、どんどん増えていくことだろう。

                台東区・浅草「浅草寺」



それと同時に、『鬼平犯科帳』や『剣客商売』

の舞台を廻る「お江戸散歩」も、増えていく

ことになる。
         浅草1丁目1番1号にある「神谷バー」の電気ブラン

                  「神谷バー」
さらに、何よりも、「お江戸散歩」の本(もと)である『鬼平犯科帳』『剣客商売』

に関する記述も増えていくだろう。
《その二》  『膳の研究(食事の情景)』 

池波正太郎の本に、『わたしの旅』(講談社文庫)というのがある。

いろいろなテーマを取り上げてのエッセイ集なのだが、その中の

《時代小説の食べ物》というテーマのエッセイの中に、こういう記述がある。



 つまり、小説中の人物に西瓜を食べさせることによって、元禄初年の時代も書きあ

らわすことができるわけだ。

  日本諸国に戦火が絶え、徳川幕府による天下統一が成ってから、七、八十年が経過

 し、ようやくに、町民たちも西瓜のような嗜好食品を口にするだけのゆとりができた

 ということなのである。

  この少し前から、浅草の金竜山・浅草寺の門前町で〔奈良茶めし〕を食べさせる茶

 店が何軒も出来ている。

  これは、茶飯にとうふ汁、煮しめなどをつけて客をよんだもので、これが大評判と

 なった。

  現代なら何のことはないのだが、そのころ以前の日本の人たちは家庭における食事

 以外、外を出歩いてものを食べることがなかったといってよい。

  その食事も、一日に二食であった。

  というのも、夜の闇が下りれば、灯りをつけねばならぬ。その灯油やらろうそくや

 らが非常に高価なもので、よほどの金もちでないかぎり、

 「暗くなればねむる。そして朝早く起きる」

 というのが、一般の習慣であった。      (P234〜235) 


長い引用になってしまったが、



・庶民が西瓜などを食するというゆとりができてきたのは、

 江戸時代も、元禄の時代ころからであるということ。



・また、客に食事を提供する店ができてきたりするのも、

 その頃だったらしいということが分かる。



働いて得た賃金で衣食住をまかない、たまには西瓜のような

嗜好品を買うゆとり(経済力)も出来てきた、ということだろう。



ただし、「茶飯にとうふ汁、煮しめなどをつけて客をよんだもので、

これが大評判となった。」
とあることからしても、この当時の江戸の

町の人々の毎日の食事は、かなり質素なものだったのではないか

と思われる。



江戸の町の人々の暮らしが、もう少し向上していくには、

さらに時代を経て、日本の国の様々な生産力が伸びて

いかなくてはならない。



私は、この時代、食事が二食だったということに、逆に心が惹かれる。

昔は、生産力の関係で「灯油」やら「ろうそく」などが高価なものだった

からということだが、


「暗くなればねむる。そして朝早く起きる」


というのは、何か利にかなったことのような気がするからだ。




庶民だけでなく、武士の世界でも、その暮らしぶりは質素で

あったことも書かれている。



 江戸時代の武家よりも、むしろ町人のほうがぜいたくなものを口に入れていたよう

だ。

  ことに元禄時代以後は、金銀が大都会の富商たちへあつまってしまい、体裁は大き

 くとも、多くのさむらいたちは実に質素な日常生活を送っていたようにおもわれる。

  近江・膳所六万石、本多家の重役の一人が、夕飯の膳についた食物を書きのこして

 いるが、

    大根のなます。

    しいたけと、とうふの煮物。

    香の物に吸い物。

 と、たったこれだけである。        (P238〜239)


六万石の藩の重役の夕飯の膳としては、まさに質素そのものである。



私は、「池波正太郎の小説の中に出てくる食べ物」について調べ

てみたいと考えている。



江戸時代の人々が、どのような食事を膳に上らせていたのか、つまり

メニューを知りたいというのが一つ。



時代とともに、メニューはどのように変わっていくのかも知りたい。

経済の発展で、どのようにメニューが増えていくのか。



もう一つは、江戸時代の人々の食事、暮らしぶりを知ることを通して、

「飽食の時代」と呼ばれて久しい現代日本、その中で生きている私自身の

暮らしのあり方というものを、見つめ直してみたいとも考えている。



贅沢な中で生きていたのでは、贅沢な生き方・作法しか身につけることが

できない。


ものの有り余っている中で生きている今の日本人が幸せだとは、私は

思わない。



今の日本人が失ってしまった何かを、江戸時代の人々の食事と暮らしぶり

を知ることを通して確かめていってみたいと思う。





『鬼平犯科帳』と『剣客商売』をざっと比べると、『剣客商売』の方が

様々な食べ物の記述が出てくる。



まずは、『剣客商売一』に出てくる食べ物の記述を通して、当時の人々の

暮らしぶり、そこに見られる人々の考え方といったものを調べてみたいと

思う。



『剣客商売一』より

◎根深汁(ねぎの味噌汁)と大根の漬物と麦飯


『剣客商売一』の「女武芸者」の冒頭で出てくる食べ物である。
 
  台所から根深汁(ねぎの味噌汁)のにおいがただよってきている。

  このところ朝も夕も、根深汁に大根の漬物だけで食事をしながら、彼は暮らしていた。

  若者の名を、秋山大治郎という。

  荒川が大川(隅田川)に変わって、その流れを転じようとする浅草の外れの、真崎稲 

 荷明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、そろそ

 ろ半年になろうか。…(中略)…

  根深汁で飯を食べはじめた彼の両眼は童子のごとく無邪気なものであって、ふとや

 かな鼻はたのしげに汁のにおいを嗅ぎ、厚い唇はたきあがったばかりの麦飯をうけい

 れることに専念しきっているかのようだ。    (P1〜2)


秋山小兵衛の一子・山大治郎は、24歳。


安永六年(1777年)の「初冬」という設定になっている。


元禄時代(1688.9.30 〜1704.3.13)からは、70年以上が過ぎていることになる。



大治郎について、まとめておく。


大治郎は、大治郎が十五歳の夏に、山城の国・愛宕郡・大原の里に

修行に出ている。



そして、秋山小兵衛の無外流の師・辻平右衛門のもとで、

五年間の修行を続けている。




老師・辻平右衛門の病死により、二十歳になった大治郎は、

一度、江戸に戻るが、すぐにまた、父のもとをはなれ、

四年間、「遠国」をまわって修行を積んできている。



そして、四年の所業の後、この年、安永六年(1777年)の

二月末に、江戸に戻ってきたている。



夏になって、「浜町の田沼家・中屋敷(別邸)」でおこなわれた

剣術の試合に参加。


見事な成績を収め、江戸の剣術界へのデビューをはたしている。




そして、今は、「初冬」ということなのである。



秋山大治郎が住む無外流の剣術道場・兼住まいは、

父の秋山小兵衛の援助によって建てられた。



新築ではなく、改築のようだ(P99)。



「道場をたててやったのだから、これからは、お前一人でやれ」(P66)

というわけで、その他、金の援助などはない。




弟子はまだ一人もいない。

というわけで、普通に考えれば、「貧しい」(P18)のである。



そんな状況にある彼の食事が、

「根深汁」「大根の漬物」「麦飯」

のみなのである。


これも、まさに質素そのものである。



おいおい明らかになっていくが、しかし、この食事には、「貧しさ」はない。



ここに、私は、魅力を感じる。

大治郎の生きざまにである。



◎お茶と嵯峨落雁(さがらくがん)



「あたたかい初冬の陽ざし」(P17)の日、大治郎は、父・小兵衛(五十九歳)の

家を訪ね、お茶とお菓子をごちそうになる。


  おはるが茶菓をはこんで来て、大治郎にすすめた。

  上等の茶であり、菓子は両国米沢町・京桝屋の銘菓〔嵯峨落雁〕であった。

  大治郎は、茶をのみ、ゆっくりと菓子を味わいはじめた。こだわりのない、まこと

 に自然な所作であって、いまの彼の貧しい生活がすこしもただよっていない。

  …(中略)…   

 「御馳走になりました。では、帰ります」        (P18) 


大治郎の母となる「おはる」は、十九歳。



「上等の茶」が出、「銘菓」が出てきている。

時代がずいぶん裕福になってきているのを感じる。



しかし、その「上等の茶」も「銘菓」も、大治郎が、何やら

「根深汁」に「大根の漬物」、「麦飯」と同等のような感じで

味わっている雰囲気は、不思議な印象を残す。


◎酒と納豆汁(なっとうじる)


大治郎のところを訪れて、「人ひとり、その両腕を叩き折っていただきたい」と

依頼をしにきた人物がいる。

その人物について調べを進めてもらうため、小兵衛は、おはるの父親に頼んで、

四谷・伝馬町の御用聞き・弥七( 歳)のもとに手紙を届けている。



小兵衛の手紙を受け取った弥七が、手土産の魚や野菜をもってかけつけて

きて、二人の相談が始まるのだが、その時に出てくるのが、この「納豆汁」と

酒なのである。



「今年も押しつまって来たな。老年の所為か年々に冬が辛くなる。ま、納豆汁でいっ

 ぱいやりながら、はなしをきいておくれ」     (P27)


「納豆汁」とは、味噌汁に納豆のきざんだものを入れたものか。

ほかの具も入っているのかも知れない。


◎豆腐の吸い物 甘鯛の味噌漬けなど


佐々木三冬(十九歳)が、実母「おひろ」の実家、下谷五条天神門前にある

書物問屋〔和泉屋吉右衛門〕宅で食べた夕餉のいくつか。


和泉屋吉右衛門は、三冬の母の実兄で、三冬にとっては、伯父にあたる。


「甘鯛の味噌漬け」というのは、この当時、一般庶民の口にも入る料理だった

のだろうか。それとも、裕福な商家だから出てくる料理なのだろうか。


 
 はこばれて来た膳に向い、豆腐の吸い物や甘鯛の味噌漬けなどを、ぱくぱくと口へはこ

 んでいる三冬をながめ、和泉屋吉右衛門と妻のお栄はあきれ顔を見合せ、ためいきを

 もらすのみであった     (P47)


このあと、三冬は根岸の寮に戻っていくのだが、寮の近くで四人の賊に襲われ両腕を

折られそうになるところを、小兵衛に助けられ、「女武芸者」のドラマは進んでいく。


◎餅

おはるは、実家の父親が持ってきた正月の餅を、川向こうの大治郎の道場へとどけに

 行っている.。    (P53)

金の援助はしないが、「餅」くらいは届けてやってもいいだろう、ということか。



そして、年が明けて、安永七年(1778年)

秋山小兵衛六十歳大治郎二十五歳となる。

おはる、三冬は、二十歳である。



◎一椀の汁と麦飯

  

「女武芸者」の中では、「一椀の汁」「麦飯」で終わる。


  真崎稲荷の道場には、まだ一人の入門者もない。

  大治郎は依然、一椀の汁と麦飯に腹をみたしつつ、道場に独り立って剣をふるい、

 また、時には二日も三日も食を断ち、端座したまま瞑想にふけっていたりする。  (P63) 

 

◎田螺汁(たにしじる)


ここからは、第二話「剣の誓約」に出てくる料理になる。


  浅草の外れ。真崎稲荷明神社に近い一軒家の小さな道場に独り住む大治郎は、近辺

 の百姓の女房が夕飯の支度をしてくれ、我が家へ帰ってしまうと、あとは黙然と夕飯

 を終え、読書にふけるか、または灯を消して端座し、いつまでもいつまでも瞑想にふ

 けって倦むことを知らぬ。

  だがしかし、これまでについぞ〔ひとりごと〕など、もらしたことのない彼であっ

 た。 …(中略)… 

  それがおもわず、百姓の女房の味噌汁に舌つづみをうち、「うまい」と声にのぼせた

 のは、よほどうまかったにちがいない。

  昨年の秋から、大治郎は麦飯に根深汁のみの食事で暮らしつづけてきたのだが、今夜

 は、味噌汁のねぎのかわりに田螺が入っていた。…(中略)…

  おもいがけなく、田螺汁が出たのは、唖の女房が、百姓の夫と共に採ってきた田螺

 を大治郎に食べさせたかったのだろう。

  あまりにも長い間、根深汁ばかりの毎日だっただけに、さすがの秋山大治郎も、田

 螺汁に嘆声を発してしまったことになる。

 「うまい」

  もう一度、大治郎はいい、汁と飯を交互に口に入れはじめた。この安永七年(一七

 七八年)で二十五歳になった彼の、彫りのふかい若々しい面上に、食物を摂る動物の

 幸福感がみなぎっている。     (P65〜66)




この時、大治郎の道場には、入門者が一人もなく、

「米も味噌も底をつきそう」(P66)になっていたのである。



かつて、一人のみ入門者があったのだが、三日で逃げられている。

その時の「束脩の金」で、味噌、米を買って、半年に一度、支払う

取り決めになって いた百姓の女房への給金も支払うことができた

のだが、その後、入門者はなく、新たな金は入ってきていない。



「田螺汁」か。

除草剤をつかうからだろうか、最近のさいたま市に残る田んぼや

用水、田螺も泥鰌も見られなくなった。



30年以上前は、ときたまシジミも見られたのになあ。



チャコさんの実家のある川島町の方だと、田螺も泥鰌も健在だから、

いつか、「田螺汁」は実践できそうだ。




 飯も汁の実も、噛んで噛んで、強いていえばほとんど唾液化するまでに噛みつぶし、

 腹におさめる大治郎の食事は非常に長くかかった。

  つまらぬように見えても、大治郎にとっては、これが剣士としての心得であり、幼

 少のころから父・小兵衛に仕つけられた修行の第一歩だったといってよい。

  ちなみにいうと、小兵衛の妻で、大治郎を生んだお貞は、大治郎七歳の折に病没し

 ている。

  食事を終り、ゆっくりと一杯の白湯をのみ終えた大治郎が、仰向けに、しずかに寝

 た。これも父から仕つけられたことなのである。約半刻(一時間)、そのまま目を閉じ、

 静臥するのだ。これは日常の食事にさいしてのことなのだが、別に、ごく短い時間の

 うちに食事を摂る仕様も大治郎は身につけている。     (P68)




・食べ物をしっかり噛みつぶして、腹におさめること

・食後は、半刻ほど目をとじ静臥すること



どちらも、大治郎が幼少の頃から、父・小兵衛によって仕つけられたことなのだという。

このような仕つけのできる父親というのもすばらしいと思うのだが、その仕つけをしっか

りと身につけ生きている大治郎にも、私は、とても魅力を感じる。



それにしても、「よく噛んで食べる」というのは、よく言われることなのだが、

この大治郎の食べ方は、私のようなシニア世代には、特に必要な食べ方だろう。



私など、上下に入れ歯を入れると、腹がすいていても「食べる」のが億劫に

なってしまう。



それでも、栄養を摂っていくためには食べざるを得ない。



ご飯も少し、おかずも少し口に入れて、ゆっくり噛みしめていくしかないのだ。



贅沢はする気はない。

しかし、「栄養のある美味いもの」をしっかりと食べていきたいものだ。



◎田螺汁と麦飯


大治郎が静臥しているところに、「嶋岡礼蔵」(五十七歳)が、


「大治郎。こたびは、おぬしにわしの、死に水をとってもらわねばならぬ」 (P69)


と訪ねてくる。



嶋岡礼蔵は、〔無外流〕の辻平右衛門直正が「麹町九丁目」に道場を開いてい

たときの門人の一人である。

  この、辻平右衛門の門人の中で〔竜虎〕だとか〔双璧〕だとか評判された二人が、

 秋山小兵衛と嶋岡礼蔵なのである。

  辻平右衛門は、小兵衛が三十歳、礼蔵が二十七歳の折に、何をおもったのかして、

 「両人とも、これよりは、おもうままに生きよ」

  といい、ひとり飄然として江戸を去り、山城の国・愛宕郡・大原の里へ引きこもっ

 てしまった。平右衛門には妻子はなかった。

  秋山小兵衛は江戸に残った。

  嶋岡礼蔵は、師・平右衛門につきそい、大原の里へ向った。    (P71)


この時、もちろん、大治郎は生まれていない。


しかし、大治郎は、十五歳の夏、小兵衛によって山城にいる辻平右衛門(七十歳)

のもとに送り出されている。


 「平右衛門先生が、お前を見て、江戸へもどれといわれたなら、おとなしゅう、もど

 ってまいれ」

 と、小兵衛はいった。    (P73)

大治郎は、平右衛門から「江戸へもどれ」とは言われなかったようだ。

やはり、小兵衛の「仕つけ」がものをいったようである。

この後、老師・平右衛門が病没するまでの五年間、大治郎は山城で修行を続ける。


  平右衛門の傍には、依然として嶋岡礼蔵がつかえてい、大治郎は礼蔵に、

 〔第二の師〕

 としてつかえ、山ふかい大原における五年間の修行を終えたのであった。

 (P73〜74)

この「嶋岡礼蔵」が、訪ねてきたのである。



師・嶋岡礼蔵を風呂に入れ、背中をながしたあと、大治郎は、礼蔵のために食事の

用意をする。


  田螺汁が、まだ残っていた。

  それをあたため、麦飯を新たにたき、大治郎は礼蔵をもてなしつつ、打ち合わせをす

 ませた。    (P78)


この日は、酒は出なかったようである。


◎浅蜊の剥身と葱・豆腐を、さっとうす味に煮こんだもの、冷えた酒、麦飯


大治郎は、礼蔵が訪れた次の日、礼蔵から託された書状をもって柿本源七郎のもとに

出かけている。

礼蔵と柿本源七郎との果し合いは、二日後と決まる。


その日の夜。
 

  夕餉の膳に、馳走が出た。

  あの唖の女房のこころづくしなのである。馳走といっても、浅蜊の剥身と葱・豆

 腐を、さっとうす味に煮こんだもので、

 「これはよい」

  嶋岡礼蔵は、うれしげに、なつかしげに、

 「いかにも江戸だな。むかしをおもい出す」

  と、いった。    (P87)


この語らいの中で、礼蔵が「茶わんの酒(冷えた酒)」を

飲むシーンが出てくるのだが、この酒は、礼蔵が自身で

買ってきたものか、大治郎が買ってきたものかは分からない。



大治郎は、礼蔵が来ていることを、父・小兵衛にはまだ知ら

せていない。

だから、父のもとから酒を手に入れてきたのではない、

ことだけは確かだ。



「浅蜊の剥身と葱・豆腐を、さっとうす味に煮こんだもの」

(味噌味?)というのを、いつか自分でも作ってみようと

思っている。

浅蜊から出汁が出て、さぞ美味い味になるにちがいない。



「深川飯」などというのは、これに似たものなのだろうか。


◎鯉の洗い、鯉の味噌煮、鯨骨(かぶらぼね)と針生姜の吸い物、そして酒


ここからは、第三話「芸者変転」になる。



上の料理は、最後のシーンで四谷の御用聞き・弥七と小兵衛が、

小兵衛の住む鐘ヶ淵の家で食べている。



この第三話のゆすり事件で、小兵衛は弥七に事件解決のために情報収集を

依頼している。



事件解決後、小兵衛は、弥七の労をねぎらうために、弥七を鐘ヶ淵の家へ招き、

これらの料理でねぎらう、というシーンである。


  小兵衛みずから包丁を把って料理した鯉の洗いと味噌煮。鯨骨と針生姜の吸い物など

 で、二人とも威勢よく飲み、食べた。

  おはるは、大金が入ったので大よろこびとなり、はねまわるようにして立ちはたら

 いている。

  ただよいはじめた夕闇の中に、若葉のにおいがたちこめてい、どこかで蛙の鳴く声

 がきこえた。     (P151〜152)


◎鯰(なまず)の醤油煮


ここからは、第四話「井関道場・四天王」になる。



用事で実家に戻っていたおはるが、を土産に帰ってくる。

父親が、近くの川あたりで捕らえたものか。



 「先生。お父つぁんが鯰をとって来てくれたよ。すっぽん煮にしますか?」

 「いいや、おろして熱い湯をかけてな、皮つきのまま削身にして…むめりをのぞい

 てから割醤油で煮ながら食おうよ」

 「あいあい」

  すぐさま、おはるが仕度にかかる。     (P158)


「すっぽん煮」というのは、どういう食べ方なのだろう。


「すっぽん」などまだ食べたことがないので、よくわからないが、

醤油で煮るのとはまた違った食べ方なのだろう。



◎蛤飯(はまぐりめし)


この料理は、第五話「雨の鈴鹿川」に出てくる。



嶋岡礼蔵の遺髪を、大和の国・磯城郡・芝村にある礼蔵の実家に届けた大治郎は、

芝村から山城の愛宕郡・大原の里を訪ねた後、江戸への帰途に着く。

そして、途中、関の宿を発ってまもなく、「井上八郎」と出会うことになる。

 
  浪人の名を井上八郎という。

  近江・彦根の浪人で、大治郎が大原の里に住む老師・辻平右衛門のもとで修行には

 げんでいたころ、井上は京都に住んでい、月のうち十日ほどは大原にあらわれ、亡き

 嶋岡礼蔵と二人きりで昼夜打ち通しの稽古をやっていたりしたものだ。

  当時、井上八郎は四十前後であったようだから、いまは五十に近いはずだ。

  (P216)


桑名まで行くという井上八郎に、大治郎も同道することになる。



同行の途中、大治郎は、井上八郎が、かつて多大な恩を受けた上司の息子・後藤

伊織(仇討ちの追っ手がかかっている)の救援・助勢のために、桑名に向っている

ことを聞かされる。



後藤伊織がかくまわれている油問屋〔平野屋〕で八郎とともに訪れた大治郎たちに、

ふるまわれたのが、「蛤飯」なのである。


  そこまで、伊織が語り終えたとき、桑名の名産・蛤を炊きこんだ飯がはこばれてき

 た。

  産卵期に入った蛤は味も落ちるそうだし、採るのを禁じられてもいるが、これは春

 先に採っておいて煮しめたものをつかったのだと、平野屋宗平が説明した。

  その蛤飯を食べ終えてから、

 「実は、井上さん…」

  と、秋山大治郎が、しずかに口をきった。

 「いままで、だまっていたのですが、どうも私は昨夜から今日にかけて、後藤伊織殿

 をつけねらっている、その天野なにがしの弟と、妻女を見かけたようにおもいます」

 「な、なんだと…」

  井上八郎は瞠目した。

  伊織の顔から見る見る血の気が引いていった。     (P233〜234)



◎蕎麦の実をまぜた嘗め味噌と茄子の丸煮(煮びたし)、冷酒「亀の泉」


第六話の「まゆ墨の金ちゃん」の冒頭で出てくる料理である。


  浅草・元鳥越町に〔奥山念流〕の道場をかまえている牛堀九万之助は、そのふりけ

 むる雨をながめつつ、夕餉の前の酒をのんでいた。

  九万之助が好む酒は、近所の酒屋〔よろずや〕で売っている亀の泉という銘酒で、

 これを冬も夏も冷のまま、茶わんでのむ。   (P252)


牛堀九万之助、四十一歳

最近、秋山小兵衛との親交が深まっている。



  「先生…」

   と、九万之助の身のまわりを世話している権兵衛という老僕が、蕎麦の実をまぜた 

 嘗め味噌と茄子の丸煮を運んで来て、

  「いやな奴が、めえりましたよう」

 しわだらけの老顔を顰めて見せた。     (P253)


来たのは、三浦金太郎(二十八歳)。


剣術の腕前は「相当なもの」で、九万之助の代わり

に門人たちへの稽古をつけていたこともある。

この金太郎、口紅をさしたり、眉墨を使ったり、耳の後ろに白粉をつけたりするもので、

老僕の権兵衛などからは、「男女(おとこおんな)」「糸瓜(へちま)の化け物」などと、

悪口をたたかれている。



秋山小兵衛は、彼のことを「まゆ墨の金ちゃん」と呼んでいる。



◎味噌汁(のにおい)


大治郎暗殺の決行が明日に決まったことを、牛堀九万之助から聞かされた小兵衛が、

大治郎宅を訪ねる。


  秋山大治郎は父・秋山小兵衛を迎えたとき、井戸端で水を浴びていた。 

  台所で味噌汁のにおいがしている。    (P286)


小兵衛は大治郎にいくつか質問をしたのみで立ち去っていく。



  「いや、別に……」

   いいさして、小兵衛は黙りこみ、空を見上げた。何やら一心におもいつめているよ 

  うであった。このような父の姿を、大治郎はかつて見たことがない。

  「父上……」

  「あの、な……」

  「はい?」

  「いや……なんでもない。よし、よし。わかった、わかった」

  踵を返し、小兵衛が立ち去って行った。足どりが何かもつれるように見えた。

  大治郎は、むしろ茫然と、これを見送ったのみである。

  (いったい、父上はどうなされたのか……)》

  わからぬ。いかに考えてみても、わからなかった。

  いっぽう秋山小兵衛は、どこをどう歩いたて来たものか、よくおぼえていない。

  気がつくと、浅草寺境内の休み茶屋の腰掛にぼんやりとかけていたのである。

  内山と三浦の大治郎襲撃は、明夜だという。

 (いまからでも、遅くはない……)

  のだ。

   自分が手を貸してやらずとも、明日の襲撃のことを大治郎に告げてやれば、大治郎

  のこころ構えもちがってくる…。迎え撃つための手段をめぐらしておけば、よもや不覚 

  をとるまい。

   だが、ついに告げてやらなかった。

 (大治郎は、おのれ一人のちからにて、切りぬけるべきである)

   この剣客としての信念から告げなかったのだとすれば、それは父としての愛から発

  したものなのか……それとも、小兵衛の衒いから出たものか、老骨の依怙地からなの 
 
  か……。

   もう自分で自分が、わからなくなってしまい、小兵衛は茶代を置くと、またしても

  歩き出した。     (P287〜P288)



息子・大治郎の生死をめぐって、小兵衛が苦悩を続ける場面なのであるが、

小兵衛が、父親としてこのような姿を見せるのは、『剣客商売』の中でも

たいへんめずらしい。


◎梅干と瓜の漬物、白粥(しらがゆ)


大治郎襲撃決行の日、一日中、寝床からはなれなかった小兵衛。


  七ツ(午後四時)ごろ、むっくりと起きあがった小兵衛は、風呂場で水を浴び、お

 はるに用意をさせた白粥を梅干と瓜の漬物で二杯ほど食べ、

 「雨の中をすまないが、おはる。舟を出しておくれ」

 と、いった。     (P293)


◎鮎(塩焼き)と酒


第七話「御老中暗殺」に入る。


『剣客商売一』の最終話である。



田沼家の〔御膳番〕をつとめる飯田平助のふところから紙入れが

掏り取られるのを佐々木三冬が偶然見ていた。



三冬は、掏摸(すり)から平助の紙入れを取り戻すのだが、

中から出てきたのは大枚の金と共に油紙にくるまれた薬の

包みであった。


三冬は疑惑を抱き、秋山小兵衛宅を訪れる。



本所・亀沢町に住む町医者の小川宗哲の鑑定により、その薬が

毒薬であると知った小兵衛は、飯田平助の動きをさぐる手伝いを

たのむために、四谷伝馬町の御用聞き、弥七の家に出向いて行く。



 「まあ、先生。弥七はいま、外へ出ておりますんで」

 「おみねさん。今日は帰るまで待たしてもらうが、いいかえ」

 「はい、はい。そうなすって下さいまし。ちょうど、よい鮎が入っておりますし

  ……」

 「それはいい。酒もたのむ。おやおや、いつの間にか夕暮れになってしまった。腹も

 ぺこぺこさ」     (P316)


◎冷えた瓜(うり)


弥七の探索により、平助が一橋家の控屋敷に入ったことを知った小兵衛、大治郎親子が

屋敷近くの木立の中で見張りをしている。


時は四ツ(午後10時)ごろである。


  この間、弥七は見張りの場所をはなれ、田沼屋敷を出て来た三冬と連絡をとってい

 る。

  神田橋門外で三冬と会い、駆け戻って来た弥七の報告を聞いた小兵衛が、

 「では、田沼様は浜町の中屋敷へ移られるというのだな」

 「さようで」

 「なるほど、それでよし。三冬どのには、根岸の家へ帰って首尾を待つようにつたえ

  てくれたろうな」

 「おっしゃるまでもございません」

 「それでよし、よし」

 「先生。門跡前で冷えた瓜を買ってまいりました。めしあがりますか?」

 「おお、何よりの馳走だ。切ってくれ」

 「かしこまりました」

  それから一刻(二時間)ほどして、五人の影が、一橋家の控屋敷からあらわれたの

 であった。     (P342〜343)



梅雨の明けた夏の夜のことである。冷えた瓜は、まさに「何よりの馳走」だろう。


私などは、蚊のことが気になってしまうのだが……。


◎冷えた白玉と熱い煎茶


事件が解決して10日ほどすぎた日の午後、昼寝をむさぼっている小兵衛のもとへ、

田沼意次が三冬と十騎ほどの供をしたがえて訪ねて来る。



おそらく、小兵衛は田沼意次を遠くからは見てはいると思うのだが、直接に面と向かって

対面するのは、このときが初めてではないかと思う。



その意次に、小兵衛は、「冷えた白玉」と「熱い煎茶」を出すのである。




  裏の井戸の中へ、笊に入れた白玉が冷やしてあった。

  おはるが、

 「お目ざが、井戸に冷やしてありますからね」

  と、出がけにいいおいたことばを、思い出したのである。

  もち米の粉をねって、小さくまるめた白玉を皿にとり、白砂糖をたっぷりふりかけ

 たのと、熱い煎茶を三人分、盆に乗せてはこび、

 「さて、このようなものが御老中のお口に合いますかどうか……」

  小兵衛がいうや、田沼意次は莞爾となって、

 「久しく口にせぬが、白玉は大好物。むかしむかし、母がよう、こしらえて下された

  ものじゃ」

 「それはうれしいことで……」

 「む。うまい。よう冷えています」

 「おそれいります」      (P349〜350)




おはるは、小兵衛と昼をすませたあと、「野菜をとりに」関谷村の実家に出かけている。


 「お目ざが、井戸に冷やしてありますからね」

「お目ざ」の意味が最初わからなかったのだが、今回読みなおしてみてよくわかった。

いい日本語だなあと思う。



小兵衛と意次の会話もいい。

なんともいわれぬ、ていねいな日本語が使われているのである。





まだ『剣客商売一』のみであるが、大治郎の毎日の食事は別として、

江戸にはずいぶん素敵な食材があることに驚く。



野菜なども、人肥などをつかって育てられていたのだろうし、川や

田んぼなどでは、田螺、泥鰌、鯰等々もとれる。



贅沢ではないが、身体にいいものを食べていたんだなあとうらやましく

思ってしまう。



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