讀賣巨人軍・ジャイアント馬場 |
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讀賣巨人軍のジャイアント馬場が |
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『読売ジャイアンツのジャイアント馬場が
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面白い人だな、と思った。 声が、くぐもったみたいな例のジャイアント馬場の声だった。 ずいぶん大きな人だなあ、という印象だった。 *この話の舞台は、現在の函館の地図でいうと、この辺です。
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あれは、いつのことだったのだろう。 ジャイアント馬場が、読売ジャイアンツに在籍していたのは、1955年 1月 〜 1960年1月(昭和30年〜昭和35年)までだ。ちょうど、5年間在籍していた ことになる。 馬場選手は、1955年(昭和30年)1月に「投手」(背番号59)としてスカウトされている。 この年は、私は、6歳。 あれは、「6歳」の記憶ではないから、馬場選手を見たのは、この年ではない。 馬場選手が、左ひじのケガを理由に、読売ジャイアンツを去ったのが1960年(昭和35年) 1月で、この時は、私は、5年生で、末広町に住んでいるが、真冬には、野球はやらない から、この年でもない。 千代台球場が、中島町に近いことから考えると、1、2年生の頃(1956〜1957年) のことかなあ、とも思えるが、記憶の鮮明さからすると、1、2年の記憶じゃあない ような気がする。 3、4年生(1958〜1959年)の頃は、青柳町、末広町に住んでいたから、 わざわざ遠くの千代台球場まで出かけていくかな、とも思えるのだが、 遠征(探検)好きだった私からすると、この時期かなとも思える。 どうも、3、4年生のこの時期だったのじゃないのかな。 何をそんなにこだわっているの、と言われそうだ。 |
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いずれにしても、あの時の野球選手が、 「ジャイアント馬場」 だということに気がつくのは、ずっとずっと後、 大人になってからのことになる。 |
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P.S 北海道の弟から、メールが届いた。 「故郷・北海道物語拝見 まだ、全部見てませんが、懐かしかったり面白かったり、ビックリ(魚の寄生虫).etcで
これからいろいろと見ていくのが楽しみです。
ジャイアント馬場が巨人軍2軍選手として千代台球場で試合をした年は昭和33年
だったと思います。私のほうは親父と観にいっており馬場はピッチャーをやっていましたが
ホームランも打っていました。…」 弟の情報でいくと、私がジャイアント馬場を千代台球場で見たのは、 1958年(昭和33年)、私が3年生で、青柳町に住んでいた時のこと ということになる。 その後の弟からのメールによると、この試合には、父と弟が二人で 一緒に見に行っていて、私は、ひとり別行動で見に行っていたらしい。 小学3年生のこの頃から、私には、こんな傾向があったようだ。 |
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