豪傑 |
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ナゼ豪傑に? |
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『豪傑の誕生』 私は、高校1年で、「豪傑」になってしまった。 1965年(昭和40年)4月、北海道函館中部 高等学校(函中)に入学。 私が「豪傑」となるきっかけは、函中入学前 から始まっていた! |
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光成中学校を卒業した春休み中に、私は、入学の決まった北海道函館中部高等 学校(函中)の演劇部を訪ねている。 「演劇部に入部するつもりですので、今から手伝いをさせてもらおうと思ってきました!」 なんて、気のきいたようなセリフを、演劇部の部長(女性)に口走ったのを覚えている。 折りしも、函中の演劇部では、春の演劇発表会のための準備の真っ最中であった。 函館市内いくつかの高校の演劇部が集まって交流する、春の演劇発表会が予定されて おり、そのための準備の真っ最中だったのである。 私は、入学前から応援に出かけて行って、早めに顔を売っておいた方が得策だ、みたい に簡単に考えていたのだが、そんな安易な気分で出かけていったその日に、驚愕と共に、 後悔をしてしまった。 行ったその日から、小道具作りや舞台装置の製作など、夜の12時過ぎまで延々と続くこと になる。 春休み中、それがずっと。 そして、函中入学後の1学期も、それが、ずっと続くこととなる! (高校の演劇部って、こんな凄いところなのか!) 1学期のある時、私は、数学担当の先生の前に、5〜6名の男子生徒と共に立たされていた。 「罪状」は、「問題集の宿題をやってきていない!」であった。 函中は、函館市内でも、名のある進学校と言われてきた伝統があり、この数学担当の先生、 一日目の授業で、私たちに、2冊の問題集を配って言ったものだ。 「この2冊の問題集は、1学期中に終わらせてしまいます。」 「大学区制」から切り替わって「小学区制」になっていたからこそ、私は、函中に入ることが できた。 なのに、血迷って、3月中から、函中演劇部で、毎日、夜12時過ぎまで、「小道具作り」、 「大道具作り」に取り組んでいる! 自分から望んだことではあるが。 だから、 「宿題をやっている時間は、……ない。」 数学の先生は、「今度から、必ずやってくるように。いいですか。」 みたいな感じで、立たされている男子学生一人ひとりに問いかけ、 「はい。」 の返事が続いていたのだが、私は、頭の中で、大急ぎで考えをめぐらせていた。 (はたして、できるか……?) 「今度からは、必ずやってきなさい。いいですか。」 私の番が来た時、私は、 「できません。」 と答えていた。 どう考えても、 「宿題をやっている時間は、ない。」 そう思った。 先生が眼を丸くして私を見ていたのを覚えている。 どうして「できない」のか、私は、言い訳をしなかった。 でも、そう答えた時、私は、泣きたい気持ちだった。 だからだと思うが、その場では、その先生は、さらなる追及をせず 授業を終えてくださった。 後で、担任の先生から、こっぴどく叱られたのは当然のことである。 担任からは、「宿題ができない」理由を、問われたと思う。 私がどう答えたかは、覚えていない。 ただ、話が終わって、担任の前を去ろうと挨拶をした時、担任の先生から、 「〇〇先生(数学の先生)、私に、あなたのクラスには、すごい『豪傑』が いますね、と言っていましたよ。」 という言葉が帰ってきた。 本当に、「豪傑」だったのだろうか? 高校1年生の1学期の出来事である。 2年の2学期、秋の演劇発表会を機に、私は、演劇部の退部を申し出た。 大学入試に向けて、勉学に励まなくてはならなくなる。 1967年(昭和42年)の12月、高校3年の12月の時、宇賀浦町から、五稜郭 にほど近い柏木町に引っ越す。 この家で、大学を卒業して東京に就職に向かうまで、およそ6年間を すごすことになる。 |
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