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アパートの2軒となり辺りに、「ライオン食堂」という お店があった。 「食堂」という名前がついているが、中は、レストラン 風のお店だったな。 この店では、一度、弟と一緒に「バター」のついた トーストを、お店の人からごちそうになったことが あった。 おいしかった! 本物の「バター」は、当時の私たちにとってはめずら しいものだった。 今でも、北海道にいる弟にこの時の話をすると、 「覚えている!」 という。 2007年夏に、ここを訪ねてみたが、残念ながら、 この店は、残っていなかった。 電車通りには、「來々軒」というお店があったが、 この店は、今でも残っている。 昭和10年創業の老舗である。 ☆参考:『ラ−メン達の歴史!PAPUA-ISLAND』 |
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アパートの裏手は、函館港。 目の前に、函館山がある。 学校は、坂の上の小学校・弥生小学校へ。 弥生小学校は、かつて石川啄木が代用教員をしていた学校である。 私は、1959〜1960年(昭和34年〜昭和35年)の2年間、この学校に通う。 |
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時代は、60年安保闘争前夜で騒然としていた時だったのだが、小学生の私には、 知る由もなかった。 ただ、学校では、デモのまねをする遊びが流行っていたのを覚えている。 「アンポハンタイ」と連呼しながら、数人とスクラムを組んで練り歩くのだ。 「アンポハンタイ」組ばかりではつまらないので、一度「アンポサンセー」組を 作ってスクラムを組んだことがあったが、 「アンポサンセーなんて最低だ。」 と、同級生からとうとうと批判されたことがあった。 |
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60年安保が終焉してからのことだと思うが、坂の上にある五島軒本店に、 岸信介首相(退陣後かも知れない)が来たことがある。 大勢つめかけている野次馬に混じっているうちに、前に押し出されていって、 目の前に来た岸信介氏と握手をしてしまった。 |
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坂の上の「五島軒本店」は、1879年(明治12年)の 創業以来130年近い歴史を持つ、函館でもっとも古い フランス料理のレストランである。 と言っても、創業時は、ロシア料理の店だったらしいが。 岸信介氏が来るくらいの店だから、当時の私たちに とっては、手の届かない高級料理店だった。 |
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末広町は、函館山の麓の町だったので、この時期、 遊び場は、函館山だった。 よく函館山に友だちと探検に出かけた。 登山口から少し登ったあたりに、防空壕跡が残って いて、松明を作ってはよく中に入り込んだものだ。 |
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おなかがすくと、「グミ」「コクワ」「ヤマブドウ」「オンコ」 「グスペリ」などをさがして食べていた。 「コクワ」は、木の高いところになっているので、 中々ありつけなかったが。 味は、「キウイ」。 「サルナシ」というのが、本当の名らしい。 |
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これは、「オンコ」の実。北海道では、こう呼ぶ。 正式名称は、イチイだそうだ。 「オンコ」とうい呼び名は、アイヌ語に由来 しているとウィキペディアには書かれていたが、 「オンコ アイヌ語」で検索すると、どうもアイヌ語 由来ではないみたいだなあ。 |
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函館山の裏手にある海岸まで出かけていって、 トンカチ、タガネを手に「水晶」や「黄鉄鉱」探しに 熱中していた時期でもある。 |
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函館港では、岸壁でよく釣りをした。 岸壁からスルメなどのエサを入れた網を沈めておく と、小さな透き通った海老が入っていた。 父と夜釣りをした記憶がある。 「海たなご」が釣れて大喜びをしたのだが、釣り 上げたたなごのお腹から、何匹も子たなごがで出て くるのを見て、食欲がなくなってしまった記憶がある。 |
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