中島三郎助・中島町 |
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中島三郎助と中島町 |
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私が、読売巨人軍の馬場幸一選手(ジャイアント馬場) を見た「千代台球場(ちよがだいきゅうじょう)」、そして 1年生の時通っていた中島小学校、その一帯に、かつて 「千代ヶ岡陣屋」があったと言われている。 「千代ヶ岡陣屋」は、1808年(文化5年)、幕府から 「蝦夷地警備」を命じられた「仙台藩」によって作ら れた陣屋である。 |
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1855年(安政2年)になって、幕府が「津軽藩」に対して、 北方警備を命じたため、千代ヶ岡陣屋は、後に津軽藩に 引き継がれ、津軽藩元陣屋となっている。 この陣屋は、人の3倍以上もある土塁、石垣がつまれて おり、東西約130m、南北約150mの広さを持つ、かなり 大規模なものだったらしい。 この陣屋は、箱館戦争では、旧幕府軍の砦の一つとして、 使われている。 |
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「中島三郎助」とは、どのような人だったのか。 もとは浦賀奉行所で「与力」を勤めていた人だが、1853年(嘉永6年)、 ペリー艦隊が浦賀沖に来航した折は、日本人として初めて黒船に 乗り込み、アメリカ側との交渉にあたったりしている。 その後日本初の大型洋式軍艦「鳳凰丸」建造に尽力。 勝海舟などと共に、長崎海軍伝習所1期生として入所。 造船学・機関学・航海術等を修めている。 かなり優秀な人だったようだ。 幕府崩壊後は、旧幕臣として、海軍副総裁・榎本武揚(この人は、 ちなみに、長崎海軍伝習所2期生)らと共に行動。 蝦夷地に渡り、箱館政権下で、「箱館奉行並」を勤めている。 箱館戦争では、五稜郭本陣の前衛にあたる「千代ヶ岡陣屋」を守備し、 陣屋隊長として奮戦。 箱館市中が次第に新政府軍に占領されていく中、新政府軍からの 降伏勧告に対し、中島三郎助は、徹底抗戦を主張。 最後まで闘い続け、ついに、「千代ヶ岡陣屋」は陥落。 中島三郎助は、長男恒太郎22歳、次男英次郎19歳らと共に、 この「千代ヶ岡陣屋」で壮烈な最期を遂げている。 享年49歳。 本陣・五稜郭降伏2日前の1869年(明治2年)5月16日のことである。 現在の函館なら、五稜郭の桜が満開か、散り始める時期だろう。 「蝦夷島政府」の総裁だった榎本武揚は、生き残って、後に明治政府の大臣に までなっていくが、もし中島三郎助が生きていたなら、どのようになったのだろう。 |
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1931年(昭和6年)になって、箱館戦争に散った、 この中島父子を記念して「千代ヶ岡陣屋」付近の 土地が「中島町」と名付けられる。 現在、中島町には、「中島三郎助父子最期の地碑」が 建っており、近くの中島廉売商店街の人たちや地域 の有志の方々が、毎日、この墓碑の管理・清掃を続けて いるのだそうだ。 「中島町」と「中島三郎助」の関係は、今回、「箱館戦争」 について調べている中で初めて分かったことであった。 |
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