箱館戦争・五稜郭 |
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箱館戦争と五稜郭 |
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『箱館戦争・激戦の地…五稜郭』 かつて「箱館戦争」での激戦の地であった「五稜郭」 (五稜郭公園)は、現在、風光明美な観光名所になっ ている。 旧五稜郭タワーでは、展望台の一角に、土方歳三の 像があり、像と一緒に写真を撮ることができたものだっ たが、新しくなった五稜郭タワーではどうなのだろう。 |
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高校時代、五稜郭(五稜郭公園)は、私のデートの場所であった。 星型のお堀を、貸しボートに乗って、よく散策をしたものである。 高校生で、「喫茶店」に入るなどトンデモナイ、時代だったから、 「五稜郭公園」や「函館山」などは、恰好のデートスポットだった のである。 |
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1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、江戸幕府とアメリカ合衆国との間に、 日米和親条約が締結され、下田と箱館(現在の函館)が開港される。 箱館開港に伴う北方警備強化のための、徳川幕府の命により、 洋式城郭・要塞「五稜郭」(ごりょうかく)」が築造される。 フランス等の最新の築城理論が参考にされ、星型の要塞となった。 設計を担当したのは、洋式軍学者の武田斐三郎。 この我が国最初の洋式城郭・要塞「五稜郭」は、「箱館戦争」で激戦の地となる。 「箱館戦争」は、王政復古によって成立した「新政府軍」と、「旧幕府軍」との最後の 戦いであり、「戊辰戦争」最後の戦いでもある。 |
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1868年( 慶応4年/明治元年)、榎本武揚率いる旧幕府軍が10月26日、 五稜郭に無血入城。 箱館を占領し、「蝦夷地政権」を樹立していく。 新政府軍の本格的な反撃は、翌年の1869年(明治2年)4月より始まる。 4月、新政府軍の北海道上陸(春を待っていたのだろうナ)。 5月11日、新政府軍による箱館総攻撃開始。 |
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旧幕府軍は、「五稜郭」、「四稜郭」、「千代ヶ岡陣屋」、 「弁天岬台場」等を砦にして戦うが、次第に、形勢不利に なっていく。 |
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新政府軍の総攻撃の始まった5月11日、「弁天岬台場」で 防戦している新撰組を助けるために「一本木関門」付近に 来ていた土方歳三は、新政府軍の鉄砲隊の銃撃にあい、 最期を遂げる。 享年35歳。 *歳三の最期に関しては、「馬上で銃撃を受けた」、 「新政府軍に切り込みを敢行し、銃撃をされた」等、 諸説あり、ちょっと明確ではないんだよな。 |
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5月14日、防戦を続けていた「弁天岬台場」は、陸海から完全に包囲され、降伏。 5月16日、「千代ヶ岡陣屋」では、新政府軍の降伏勧告を拒否。 徹底抗戦の中、陣屋隊長中島三郎助親子は戦死し、「千代ヶ岡陣屋」は全滅する。 5月18日、本陣「五稜郭」、降伏。 亀田八幡宮で「蝦夷島政権」総裁榎本武揚ら旧幕府軍幹部と、新政府軍の陸軍参謀黒田清隆 との間で終戦調停が行われ、「箱館戦争」および「戊辰戦争」は終結する。 |
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今の函館を見ていては、かつて、函館の地が、新政府軍、旧幕府軍による最後の激戦の地 であったなど、想像もつかない。 「五稜郭」、「四稜郭」は、一応、その姿を残している。 しかし、「弁天岬台場」はあとかたもなく無くなっているし、「千代ヶ岡陣屋」にいたっては、 あった場所自体が確定されていない。 2007年(平成17年)8月18日、帰省の折、「土方歳三最後の地碑 」がある一本木関門跡を訪ねてみた。 土方歳三が戦死したとされる一本木関門跡も、五稜郭と共に、箱館戦争の遺構の一つとして「北海道遺産」 となっているが、土方歳三が死んだ場所も、本当は、定かではない。 |
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地碑には、歳三の写真とともに、きれいな花がいくつも飾られてあった。 そして、地碑のそばに、ハマナスが植えられていた。 |
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土方歳三が戦死をとげた5月11日といったら、現在の北海道の函館なら、 五稜郭公園の桜が満開を迎える頃だろうか、それとも、散り始める頃だ ろうか。 そんな時期に、この函館の地で、昔、激烈な戦争が行われていたのだねえ。 |
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