砂山・お化け煙突

故郷・北海道の物語

砂山とお化け煙突の町

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    『砂山とお化け煙突の町へ』



   1961年(昭和36年)、宇賀浦町に引越しした。

   近くに、砂山がまだ残っており、お化け煙突

   残っていた地域である。

   砂山は、あの石川啄木が、「一握の砂」の中で

   歌っている「砂山」である。



    「潮かをる北の浜辺の

     砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ

     今年も咲けるや」


     国道278号線(通称:漁火通り)にある
      啄木小公園。


学校は、高盛小学校に転校。

6年生だ。

小学生時代、
5回転校したことになる。


函館山からは、だいぶ離れ、大森海岸の近くになる。



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地図の右上の「拡大」「縮小」で、位置がはっきりします。





かなり優秀な子どもだった私も、転校するごとに、あまり優秀じゃない子に変化していったようだ。


大体、転校の度に、勉強が分からなくなっていくのだ。


算数など、「習っていたところ」が全然違ってくる。

音読の上手な子だったが、いつまでもそれも通用しなかった。

ただ、国語だけは大好きな子どもだった。



私は、「這い上がりたい」(「勉強ができるようになりたい」)と、いつも考えていた。



でも、小学校では、もう「這い上がる」ことはできないだろう。

しかし、中学生になれば、「這い上がる」ことができるかも知れない。

中学で徹底的に勉強をがんばる!

そして、勉強ができる子になるんだ!




中学校からは英語の勉強が始まる。
     ↓ 
英語はスタートが全員一緒。
     ↓
だから、スタートが全員一緒の中学校で、「這い上がる」ことが可能なんだ。

……という論理だ。




この地で、6年生の1年、中学校の3年間、高校の2年間、6年間を過ごすことになる。




高盛小学校」では、放送委員会に入った。



競争率の高い人気の委員会だったようで、

転校してきたばかりの私のために、担任の男の

先生が、優先的に所属できるように計らってくれた。
        現在の高盛小学校。




聴覚に関して、特別な研究をしていた学校だったのか、放送室、アナウンス室など、

設備がとても整っていた。



アナウンスの仕事、放送機器の操作など、きちんと教えてもらえたのが、とてもうれしか

ったのを覚えている。






「砂山」は、だいぶ小さくなっていたようだ。


函館市の記録の中には、次のように書かれている。


「この砂丘の大きさは、浜沿いに長く延びた小山で、およそ標高30メートル、東西1キロメートル、

 南北300メートルに及ぶもので、いつごろ、どのようにして出来たかは定かではありません。

 しかし、地先の浜砂が波浪によって運ばれたい積し、長い年月の末、自然に形づくられたと

 考えられています。」


「…長い海岸線を有する函館とはいえ、昭和40年代の初期まで″砂山≠ェ存在 していたことは、

 やはり珍しいことといえるでしょう。」

市史余話 83 《日乃出町の「砂山」 昭和40年代の初期まで存在》より)




風紋が見られるほどだったかな?



砂すべりをして遊ぶことはできた。

砂すべりをして、砂山の下に落っこちたら、

かなり汚れた水溜りに落ちてしまって、

興ざめしたのを覚えている。


砂山は、ずいぶん、小さくなっていた印象が強い。


「砂山」「お化け煙突」も、位置としては

隣同士にあったと思う。






    函館市の市史余話に掲載されている「砂山」。


啄木小公園から、日の出町方向を見ている。




大きな煙突の見えているあたりに、
「お化け煙突」

があって、その手前に
「砂山」があったように思う

んだけどねえ。



砂山のあったすぐ脇の海岸線(大森海岸)に、

石川啄木の小公園がある。

が、当時の私には、石川啄木の銅像の記憶はない。

覚えているのは、
ハマナスの実。

「こりゃあ、ウマイ!」

というほどのものではないが、熟したハマナス

の実は「食べる」ことができた。


「食べる」ことの方が先で、啄木像の記憶はない。





            ハマナスの実
   〈写真提供 / 北の大地の贈り物 Photo by (C) RARURU〉

     http://www.asahi-net.or.jp/~jb3k-tnk/
啄木は、ここの大森浜で、よく「水泳」をしたらしい。

私が、ハマナスの実を食べていたこの時代は、どういうわけか、大森浜は遊泳禁止に

なっていて、3〜4キロ先の「湯の川」まで出かけていって、泳いでいた。



       啄木小公園のすぐわきの大森浜。

啄木も感じたことだと思うが、北海道の海は

冷たい!

海から出たら、これまた寒い。

なまら(=ヒジョーニ)寒い!



まず、海に入る時は、かなりの覚悟をして、

冷たさに慣らしてからでなければ入っていけない。


しかも、

「入るぞ!」

という、決死の覚悟をしてからでなければ、入れない。



「10分間」も、そのまま入っていたら、唇が紫色になってしまうほど、水温は低い

んだ(こういう記憶が強いんだナァ)。



だから、真夏の北海道の海水浴場では、焚き火が必定だ。

海水浴場のあちこちで、焚き火が焚かれることになる。





啄木も、焚き火で暖を取りながら泳いだに違いないネ。







*東京・足立区にあった元祖「お化け煙突」のことが書かれている

 サイトを見つけた。



昭和の想い出「はすぴー倶楽部」 というサイトだ。



このサイトのメインコンテンツ
『「あの頃」のセピア色の想い出』の中に、

写真入り、図解入りで「お化け煙突」が紹介されている。



写真入り、図解入りなんて、うらやましいかぎりだ。



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